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この係争における北村側の勝訴について、その当時真珠養殖技術の研究に従事していた見瀬辰平氏は、後年大正末に至り、「その後各府県に真珠養殖事業の続発したる尚今真珠界の大発展したる」契機として、 「真珠養殖界の為慶賀して止まざる一大壮挙なり」(見瀬辰平手記)と回顧しています。
又、『真珠辞典』(昭和四十年発行、松井佳一著)はその中で「その後(大審院により北村側の無罪が結審せられた後)養殖真珠の生産は増加したが、もしこれが反対の結果を考えるとき今日の盛況は考えられぬ事である」、「このことはわが国の養殖真珠発達に関する重大事である」と記されています。
1901年(明治34年)創業となる北村家の後継者は一貫して家業として真珠事業に携ってきており、創業から既に一世紀余りが経過しています。記事中の北村幸一郎と重吉は兄弟であり、重吉は、私「真珠やの娘」の直系の曽祖父にあたります。
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眞珠養殖の裁判(word92KB)
あけぼの期の真珠裁判
父から曽祖父が「わが国の養殖真珠発展に貢献した」という話しを以前から聞かされていましたが、当時(明治45年)の新聞記事が保管されていたので紹介させていただきます。「養殖真珠のあけぼの期」における事件の名古屋控訴院判決を報道した興味深い記事であるこの訴訟(特許二六七〇号抵触)は、一つは御木本側からする「特許権侵害」の刑事事件として、他方では北村側からする「特許権利確認審判請求事件」(特許無効審判請求事件)として争われました。 明治三十八年より始まったこの訴訟事件は安濃津地方裁判所(津地裁)から始まり、名古屋控訴院(名古屋高裁)を経てさらには大正元年十一月六日の大審院(最高裁)の最終結審まで争われ、最終的には北村側の勝訴が確定しました。
この係争における北村側の勝訴について、その当時真珠養殖技術の研究に従事していた見瀬辰平氏は、後年大正末に至り、「その後各府県に真珠養殖事業の続発したる尚今真珠界の大発展したる」契機として、 「真珠養殖界の為慶賀して止まざる一大壮挙なり」(見瀬辰平手記)と回顧しています。
又、『真珠辞典』(昭和四十年発行、松井佳一著)はその中で「その後(大審院により北村側の無罪が結審せられた後)養殖真珠の生産は増加したが、もしこれが反対の結果を考えるとき今日の盛況は考えられぬ事である」、「このことはわが国の養殖真珠発達に関する重大事である」と記されています。
1901年(明治34年)創業となる北村家の後継者は一貫して家業として真珠事業に携ってきており、創業から既に一世紀余りが経過しています。記事中の北村幸一郎と重吉は兄弟であり、重吉は、私「真珠やの娘」の直系の曽祖父にあたります。
こちらは明治45年6月下旬、当時の「大阪毎日新聞」の記事です。(クリックすると大きくなります)
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当時の電報も残っています。 「ミナムザイ(皆、無罪)」と書かれています。 消印は明治45年6月24日 |
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| こちらも電報。 「ダイショウリ シクス(大勝利 祝す)」と書かれています。 消印は明治45年6月25日 |
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